福岡が歩んだ歴史(後編)
戦争を越えて掴んだ、明日への道標

躍進目覚ましい福岡の街の歴史を語る上で避けて通れないのはやはり戦争——福岡大空襲のことだろう。
この8月、日本は太平洋戦争終結から63年目を迎える。
他の都市同様に壊滅的な被害を受けた福岡の街がやがて九州随一の繁華な都市へと大成長を遂げたこの間、街や人々の中からは様々な物語が生まれた。
『福岡が歩んだ歴史』後編は戦後から現在、未来へ進む福岡を追う。
街の未来を後押ししてきた人々の声が聞こえてくるだろう。
街を灰燼に帰した福岡大空襲。あの日の少女達が今に伝えるものとは
1945年6月19日。深夜、福岡市の上空に無数の赤い雨が降った。焼夷弾の炎は街中で上がり、建物を、逃げ惑う人々を焼き尽くした。死傷者2千人以上を出した福岡大空襲は2時間のうちに市内の家屋の3分の1を焼失させ、6万人以上が家を失った——。
「自分の経験を活かして社会貢献できたらと思って」。”第3の人生を創造し次世代につなぐ“という趣旨の元、聖路加国際病院理事長の日野原重明氏が創立した「新老人の会」の会員である城戸さんと米倉さんは、こうした思いからそれぞれが経験した63年前の出来事を語ってくれた。
当時、冷泉国民小学校の6年生だった城戸さんは、夜中に空襲を知らされると外へ駆けだした。「4歳の妹を背負い病弱な母と近所の防空壕へ。でもどこも満員だと断られて…。結局私達は空から見つからないようにドブ川を渡り、中洲から住吉神社へ避難しました」。後で分かることだが、この時断られた防空壕の一つは、電動シャッターが壊れたために63人が熱死した旧十五銀行(現在の博多座)の地下室だった。一方、高校3年生の米倉さんは学徒動員で田主丸にいたため空襲は逃れたものの、夜中に福岡の方角が明るくなったことを覚えていたという。街へ戻った時には一帯はメチャクチャで「駅からすっかり浜が見えるほど」の有り様だった。そして誰もが貧しい日々を送った終戦直後。学校では弁当泥棒が頻発したが「みんな苦しかったから、誰も怒らなかった」と城戸さんも米倉さんも声をそろえ、そして今の世の中は”分け合う気持ち“が消えた、ともつぶやいた。
「世界中と交流できる今、大事なのはお互いを理解し合うことだと思う。そして今与えられた命を大切にして欲しい。”生まれ変わり“なんて無いのだから」。大勢の人や懐かしんだ風景を一夜で奪われた二人だからこそ、平和と命のかけがえ無さを深く知る人であり、その言葉には目を背けられない真実が籠っている。
戦中を生き抜いた人々が願った。平和への思いが伝わる空間
太平洋戦争において福岡の街は火の海となったものの、炭鉱地帯である筑豊地方は大きな被害は免れた。しかし戦争の影響はのどかな町にもすでに広まり、働き手は兵役に駆り出され残った人々は苦しい生活を強いられたという。そんな当時の様子を貴重な資料から知ることができるのが、嘉麻市立碓井平和祈念館だ。
祈念館に並ぶ資料の多くは、地元出身で復員後に日本各地を訪ね歩き、膨大な数の戦争資料を収集した故・武富登巳男氏(「兵士・庶民の戦争資料館」前館長)のコレクションの一部。加えて炭鉱での強制労働のために連行された朝鮮人たちに関連した資料など、県内外から集めた5千点近い品々が収蔵され、その中の貴重な一部が展示されている。
展示資料の中には、戦況の変化をうかがえるものも少なくない。例えば瀬戸物でできた地雷や手りゅう弾。これらは実戦で使われることは無かったとはいえ、長引く戦いが招いた金属不足に対する苦肉の策であることが分かる。
また館内には兵士が実際に使用したものも並ぶ。中でも目を引くのは陸軍中将まで昇り詰めた後、反戦運動に身を投じた遠藤三郎の軍服だろう。整然と並ぶ襟章や袖章からは、彼が陸軍のエリートコースをひた走った様子がうかがえる。遠藤は中国、南方で数々の作戦に関わり関東軍参謀副長を勤めるも東条英機と衝突、中枢から退く。戦後、巣鴨プリズンを出所してからは日中友好や平和活動に携わった人物だ。
戦火をくぐり抜け、当時の様子を今に伝える数々の戦中の遺物たち。目にすれば、持ち主らの声にならない悲しみと安寧への願いが聞こえるだろう。
彩りある暮らしを支えて60余年。商店街が見つめた復興の姿
空襲で福岡の人々は住む場所はもちろん、食べるものも着るものも一切失った。しかし生きるためには泣いてばかりではいられない——。そんな貧しい人々の暮らしを支えたのが、終戦の年に起こった新天町商店街だ。
新天町誕生時から現在まで、同じ場所で営業を続ける「しばた洋傘店」代表取締役、柴田嘉和さんは、「商店街の誕生は『博多のアイデアマン』が居たからこそ」と言う。アイデアマンこと田中諭吉は、後に博多祇園山笠の「集団山見せ」や「太宰府曲水の宴」など福岡ならではのイベントを企画した人物。西日本新聞戦後対策復興本部の一員だった田中が博多商人の信頼の厚い地場の企業主・原田平五郎に世話役を依頼したことで、新天町誕生は博多専門店会の協力の元に生まれた。
こうして82軒の店舗で始まった商店街は、店がみな同じ間口で仕切られ奥は居住スペースという造りだった。店舗の裏通りは商店主らの生活の場で、炊事の最中に行商人が訪れるという風景がよく見られたという。「商店街の中は店の子どもたちの遊び場。でもみんな住居を別に持つようになってからは、買い物にくる子どもしか見ないね」と柴田さんは幼かった当時を振り返る。
商店街誕生当初から続く店舗は全体の3分の1ほど。それでも柴田さんの様に業態を変えない店は少ないようだ。やがて昭和40〜50年頃には街が急速に都心化し、きらびやかなファッションビルにはたくさんの若者が集まるようになった。
福岡の復興・発展を見守り続けてきた新天町商店街。流行や道行く人のファッションは変わっても、人々の暮らしを支える大きな存在であり続けることに変わりはない。
福岡の中心で時代の変遷を見つめ続けた。「博多駅」が生まれ変わる
2008年8月15日。この日、日本は戦争終結から63年を迎える。
博多の街はこの間、高層ビルや大型商業施設の建設、新幹線や地下鉄の乗り入れなどで、駅を中心に急速な発展を遂げた。
その博多駅が2011年春、九州新幹線の全線開通に伴い大きく生まれ変わる。
発展の中心にあり続ける駅の大規模リニューアルは、街をどう変化させるのだろう。